out of control  

  


   14

 俺とネサラに用意された着替えは、ベグニオンの正装だった。
 アレだ。神官みてぇにずるずるとした白い僧服だな。俺の方は神官戦士用だとかで腰に剣帯がついていたが、ネサラの方はなにもない。
 俺の体格に合わせられるものは戦士用の装束しかなかったんだと。ネサラの方はセフェランが貸したんだな。匂いでわかった。
 こんな格好は落ち着かねえ。ネサラに手伝ってもらいながらどうにか着込んだが、鏡を見ると自分でも「うお! てめえ、誰だ!?」ぐらいの違和感があった。
 ネサラにはあの見慣れた皮肉っぽい笑顔で「なんだ。意外なぐらい似合ってるじゃないか」なんて言われたが、実際に様になってるのはネサラの方だ。
 黒だけじゃなくて白も似合うんだなとしみじみ見ていたら、不機嫌になってぷいと先に行っちまったけどな。
 この分じゃ似合うと言っても似合わないと言っても気に食わねえだろうな。俺はちょっと笑って翼をしまった背中を追いかけた。
 晩飯…じゃねえな。晩餐は、なかなかのものだったぜ。非公式な訪問だったから逆に良かったんだな。
 貴族のうるせえ狸どもはいなくて、俺たち二人のほかにはサナキとセフェランだけの食事会になったんだ。
 もちろん、親衛隊の隊長、副隊長は控えてるが、あの二人の気配はまったく邪魔にならねえからな。
 食事の内容も俺たちの好みを熟知したものだった。俺には極上の酒と新鮮な羊の肉をたっぷり血が滴りそうな焼き加減で出してくれたし、ネサラには香草の効いた香ばしい魚料理とウサギのパイ、それから手の込んだスープが並んだ。食後にはわざわざ凍らせた果物を砕いて蜂蜜と和えたものや、ガリアでもかなり奥地でしか採れねえ果実まで出たからな。
 ただ調子を崩したネサラが心配だったんだが、そこはさすがだ。顔色も変えずににこにこと平らげて、サナキを喜ばせていた。
 途中、ネサラの首に俺がつけた痣をサナキに見咎められて、適当に言い訳をする羽目になったのだけは失敗だった。
 サナキは意味がわかってねえからいいが、親衛隊の二人はそうは行かねぇ。シグルーンはたおやかに笑ったまま、タニスはさも面白いものを見つけたと言わんばかりの、それぞれ性格の出た表情で視線を向けられたが、もちろん俺は顔色も変えなかったぜ。
 ネサラは食後の茶の間に、今回の厄介事についてサナキに簡単に説明し、その後は流行の音楽や芝居だのの他愛ないおしゃべりもにこやかに済ませて、サナキが眠くなって退室するのを見送った根性はさすがだぜ。
 ただ、セフェランには気づかれていたようだな。俺たちも席を立ったところで呼び止めて、懐から薬草を出してくれた。胃腸の調子を整える薬だとよ。
 ネサラは目を丸くしてたが、有難かったんだろうさ。ちょっと疲れたようにため息をついて受け取っていた。
 それから、俺にもべつに客室が用意されてたんだが、調子が良くねえのを知っててネサラを一人にする気にはなれなかったからな。結局俺もいっしょに寝た。どうせ別の部屋にいたら気になって寝付けなかったろうから、この方が早ぇしな。
 次の日、すっかり顔色が良くなったネサラは用意された朝食をきっちり食って、また膨れっ面になったサナキにまた来いと何度もせがまれ、最後には指きりで約束させられて、ようやく飛び立ったのだった。
 俺も散々言われたさ。ちゃんと仕事をしろ、ネサラをこき使うなってな。
 ったく、俺がこいつに仕事を押し付けて楽をしてるなんてことはねえのになあ!? ……まあ、多少はそういうこともあるかも知れねえけどよ。

「デインに戻るんじゃないのか?」
「ああ。そのつもりだったが、ちょっとばかりセリノスの様子を見ておきたくてな」

 タニスに見送られてシエネの門を出たそのすぐ後、デインとは逆に向かった俺にネサラが言った。
 ここからセリノスはほど近い。気配を探ったところ、セフェランはああ言ってたが化身の力も戻ったようだしな。もう俺がついてなくても心配いらねえだろうし、せっかくここまで来て寄らねえのもな。そう思ったんだが、ネサラは少し考えて言いやがった。

「……そうか。そうだな。じゃあ俺も一度寄るか。ニアルチとリアーネがまたろくでもない心配してるといけないし」
「あ、あぁ。まあそりゃあるかも知れんが、俺からちゃんと言っておくぜ。それに、おまえまで戻らなかったらリュシオンが心配するんじゃねえか?」
「今まで散々俺を一人にできないと抜かしてたのはどこの誰だ?」

 さりげなくネサラから距離を取って言ったが、ネサラはむっとしてせっかく開けた距離を詰めて来る。
 鈍いというかなんというか…本当にこいつは俺を誘ってるんじゃねえのかと言いたくなるぜ!

「もう化身の力も戻っただろ? だったら、あんまり過保護にするとおまえが拗ねるんじゃねえかと気を遣ってんだろうがよ」
「それこそいらん気遣いだ。大体、俺にもセリノスに寄りたい事情があるのを忘れたのか?」
「……鴉の娘のことか」

 もちろん、忘れちゃいねえさ。ヤナフに報告を受けてから何度も俺を重苦しい気分にしたあの事件のことだ。

「こんな時だ。俺の顔など見たくもないかも知れんが、俺には会って話を聞く義務がある」
「ああ。それは俺もだ」
「……あんたに会いたくないと娘が言うなら、俺はその願いを退けられないぞ」

 静かに俺に視線を向けたネサラから、必要とあらば力ずくでもってのが言外に伝わって、俺はなにも言えなかった。
 民を守るためなら、ネサラは本気になる。
 かといって俺も引くことはできん。もちろん、あんなことをされたんだ。娘が俺に会うことを嫌がるのは自然のことだし、娘本人は無理でも、どうにかしてその身内から話を聞かなきゃならねえんだが。

「ティバーン?」
「あ?」

 遠ざかるシエネに背を向けて、ため息を堪えながら化身しようとしたところで、不意にネサラが俺の顔を覗き込んできた。

「な、なんだよ?」
「なんでもねえよ。いきなり近づくからだろうが。驚かせるな」

 ひたり、と俺の額に当てられた手を払いのけて化身すると、ネサラは怒るでもなく目を瞬いて俺の横に並ぶ。
 顔が近かったんだよ! あんなことされたら、つい顔を寄せたくなるだろうが。
 もちろん、こんなことは言えねえ。我ながら情けねえことこの上ないぜ!

「ネサラ、どうした? やっぱり化身できねえのか?」
「そんなことはない。……具合が悪いなら、俺があんたを運ぶぞ?」
「あ?」

 風に乗ってネサラの化身を待ってたんだが、なにやら考え込んだままだ。だから心配になって訊くと、ネサラは化身した俺の首に手を掛けてそんなことを言いやがる。
 しばらく人型の時とは色の違う視界で整った顔を見ていると、ネサラは珍しく言い難そうに言葉を続けた。

「昨夜もあんた、寝てなかっただろ? それに、今朝はいつもよりちょっと食う量が少なかったし。いつも朝っぱらからなにか酒を飲むのに飲まなかった。匂いもいつもと違うから、その…一応訊いたんだろ。あんたは俺の王でもあるんだし」

 なんだよ。気がついてたのか。
 いや、単に朝飯の量が少なかったのは追加を頼むわけにもいかねえし、こいつの食欲が戻ったようだからこいつに食わせるのを優先しただけだったんだがな。酒はサナキの手前、朝っぱらからってのはだらしねえかと我慢しただけだ。
 それにしても、匂いが変わってることまで気がついて出した結論がそれってのは、鈍いにもほどがあるだろ!

「心配いらねえ。それに、今の俺を背中に乗せるのは危ないぜ」
「どうしてだ? いくらあんたが重くても、化身すればべつに」
「そんな意味じゃねえ。そら、置いていくぜ」
「ティバーン…!」

 素直にむっとしたネサラに笑いそうになったが、これ以上そばにいてこいつの匂いを嗅いでいたら俺がもたねえ。
 翼で軽く頭をはたいて先行すると、後ろでネサラが化身する気配を感じた。
 良かったぜ。ちゃんと力が戻ったんだな。
 少し速度を落として待つと、すぐに隣に漆黒の大きな鴉が並ぶ。
 透き通るように青い空の下、冷たい日差しを浴びたネサラの羽根は独特の蒼を帯びて美しかった。
 ネサラがするりと俺の前に回りこむ。俺が受ける風の抵抗を少しでも減らそうって魂胆だろう。
 どうやら、本気で心配させちまったようだが、いらん気遣いだ。鷹と鴉だぜ。長距離を飛ぶ時は俺の方が早い。前を飛ばれるといちいち加減しなけりゃならねえし、視界が遮られて気になってしょうがねえんだよ。
 だから気持ちだけもらっとくつもりで俺は下から上がった風を使ってネサラの前に回りこんだ。
 ははは、怒った気配がするな。だが、ここが俺の定位置だ。
 もちろん、風から庇うなんて真似は鴉王相手にするはずねえ。挑発するように翼で二、三度合図を送ると、案外むきになるネサラの速度が上がる。
 切り返しなんかじゃ器用なネサラに及ばねえが、長距離飛行で鷹王が鴉王に負けてたまるかよ。
 そう思いながら俺は、ネサラの限界ぎりぎりの速度を保って一路、セリノスを目指した。
 鈍いネサラはわかってないが、いよいよ俺の発情期が来ちまったんだよ。
 気を抜くと熱に浮かされたように、あのしなやかな躰を組み敷きたい衝動を諌めながら。

 セリノスに着いたのは、ほんの数時間後ぐらいだ。
 最初に見張りの兵が俺とネサラを見つけて歓声を上げ、続けてヤナフが飛び出してきた。

「王! 鴉王も、おかえりなさいませ!!」
「なんだよ、いきなりだな! 鴉王も体調が戻ったんなら良かったぜ」
「ちょっとシエネに寄るついでがあったんでな」

 うれしそうな鷹の若い戦士とヤナフに笑って応えると、人型に戻ったネサラも「心配をかけたな」と珍しくしおらしいことを言いやがって、目を丸くしたヤナフが笑ってばんばんと黒衣の背中を叩いた。

「ネサラー!」
「ぼっちゃま! よくぞご無事で…!!」

 とりあえず、挨拶は後回しだ。軽く旋回して鷺の館の庭に降り立つと、輝くような笑顔でまずリアーネが飛び出して来て、続いてニアルチも俺たちを出迎えた。

「ちょっと寄っただけだ。またすぐに出かける」
「でも、おかえり!」
「あぁ。……ただいま」

 真っ白な薄い翼で軽やかに羽ばたき華奢な腕を巻きつけて花のように笑ったリアーネに、ネサラも疲れを忘れたように漆黒の翼をたたみながら極上の笑顔を浮かべて応えた。
 本当に絵になる二人だぜ。じいさんじゃなくとも、この二人の婚姻を望む者は多いだろうよ。
 ネサラは渋っていたが、俺だってこいつにあれこれしてえと思う今でもネサラの気持ちさえ固まったなら、そりゃもうすぐにでも婚姻の準備をしてえとこだ。
 二人の間に生まれる子はさぞ可愛いだろうな。まあ、子を作る過程が気にならねえわけじゃねえが…って、おい。いくらなんでもここでリアーネの方じゃなくてよ、……まあさすがに想像だけでもリアーネを裸に剥くなんざできねえんだが、どうしてネサラの裸が頭を過ぎるのか、さすがに自分がおかしいんじゃねえかと思うぜ。

「リアーネ?」

 おっと、やべえ。リアーネに通じたか。
 ネサラの腕の中でにこにこしていたリアーネが、弾かれたように顔を上げる。ネサラの肩越しに春先の若葉の色をした目が俺を睨んだ。

『ティバーンさま、ネサラをいじめるの!?』
「いじめねえよ。本人がいじめさせねえだろ」
「なんと! 鳥翼王様、ぼっちゃまがなにかいたしましたか!?」
「なにもしてない! おい、リアーネ、なにを言ってるんだ!?」

 焦るネサラをよそにするりとネサラの腕を抜け出して俺とネサラの間に立ちふさがりながら、鷺とは思えねえ剣幕で怒ったリアーネに、俺はもちろん、ネサラとニアルチも仰天した。

「でもティバーンさまがネサラのお洋服いらないって」
「いる! ニアルチが勘違いするだろ。心配ないから、もうなにも言うな」
「でもネサラ、かまれた。いたいでしょ? ネサラ、いやって言ったのに、ティバーンさま、ゆるさなかった」
「ぼっちゃま!? 鳥翼王様、まさか、本当にぼっちゃまになにか無体なことを…!」
「ち、ちがう! ティバーン! あんた、リアーネの前で変なことを、しかもそんなとこだけわざわざ思い出すな!!」

 しょうがねえだろ。言われたらつい思い出しちまうんだよ。
 純粋にネサラを心配してまくしたてるリアーネと、こっちは真っ青になって卒倒しそうなニアルチにはさまれたネサラは気の毒だが、俺はなにも言えずに頭を掻いて三人から離れた。
 べつに、逃げるつもりじゃねえぞ? 俺は俺で、先に済ませてえ用事があるんだよ。

「悪いな、その話はまた後だ。ネサラ、出発までそんなに時間は取れねえ。おめえも用事を済ませたらゆっくりするんだぜ」
「ティバーン! せめて誤解は解いて行け!!」

 半分は誤解じゃねえから困るんだろうが。
 羽ばたきながらそう言うと、後ろからネサラの怒声が響いたがそれどころじゃねえ。
 くそ、頭がぼうっとして脈が速い。挨拶をしてくる連中も気配ですぐに事情を察したんだろうさ。鴉の民だけは意味がわからねえのか遠巻きだが、俺は適当に顔なじみの連中に挨拶してセリノスの古い祭壇へ急いだ。

「ティバーン……」
「ラフィエル、すまねえな。ロライゼ様は? まだ戻ってねえのか?」

 かつては、鷺王しか立ち入ることを許されなかった聖域だ。俺たちが帰ったのを聞いてすぐにここに来てくれたんだな。
 そこにはラフィエルがいた。
 セリノスの深い緑の中でもいっそう清浄な空気を醸す古い石造りの祭壇の前に立つラフィエルには、ロライゼ様にも負けない風格がある。
 新しい時代に必要なのはリュシオンのような王だとこいつは次期王位を辞退しているが、呪歌にこめられる力の強さや風格は、やっぱりこいつこそが鷺王に相応しいんじゃねえかと思うぜ。

「はい。それにしてもクリミアの黒騎士様から見舞いの書状をいただいた時は驚きました。まさか、中身が君からの手紙だとは」
「俺の名で出すとどこで誰が読むかわからねえ。その点、クリミアの重鎮でしかもおまえと関わった女王の叔父からのものなら、さすがの考えなしでも手出しできねえだろうと思ったんでな」

 やべえ。いよいよ限界だ。
 気を抜くとネサラはなんとか避けたとしても、馴染みの女の躰恋しさに飛び出しそうになる衝動をかろうじて堪えていると、祭壇の前になんとか座った俺にラフィエルがそっと近づく。

「確かに。君は頭を使うことが得意ではないように見せかけておいて、実はあの鴉王の何倍も油断のない人ですからね」
「そりゃ身内びいきが過ぎるってもんだ。それで、頼めるか?」
「はい」

 どんなに発情しても、鷺にだけはそれが向かねえのは救いだな……。乱れた息を堪えきれずに口を覆って暴れそうになる翼を押さえ込むと、微笑んだラフィエルがそんな俺の翼に触れた。
 そして、清浄な森そのもののような透き通った歌声が溢れ出す。
 リアーネの歌声は、まるで花のようだ。基本的には咲き誇る春の花々の気配で、呪歌にこめられた力によってその季節が変わる。
 リュシオンの歌声は、戦場で俺たちの魂を鼓舞する炎のようであり、空を飛ぶ時に翼を支える風のようであり、あるいは疲れた身体を受け止める大地のようだった。
 ロライゼ様は……その全てであり、それ以上のものであり、だな。天上の女神たちの奏でる詩を織り上げるようだと、吟遊詩人がたとえたことがあるらしいが、なるほどと思ったもんだぜ。
 なにものにも形容し難く、ただ聴くだけで感情まで支配される。初めて耳にした時は鷺王の凄みを感じたもんだ。
 ラフィエルの唄は、そのロライゼ様に近い。
 近いが、それだけじゃねえな。いろんな想いを乗り越えたってのが大きいか。
 こいつの歌声には、どんな痛みも悲しみも慰められるような……そんな深みが加わった。
 身体の芯から、洗い清められる。
 あれだけ昂ぶっていた激情が嘘のように凪いできた。まるで魔法のように。

「………どうですか?」
「ああ、楽になった」

 これはまだロライゼ様とラフィエルにしか謡えねえ「快癒」の呪歌だ。死神が取り付いた病でさえこの呪歌の前じゃ癒えると言うが、本当にそうなんじゃねえかと思うぜ。

「それは嘘ですよ。確かにいっとき、身体を楽にしてさしあげることはできますが、定められた命の時間を変えることはできません」
「効きそうになのに、不思議なもんだ」
「そう信じて謡っても、私たちは愛する者をただ見送り続けてきましたから」

 竜鱗族と並んで長寿の鷺だからこその悲しみだな……。
 心に浮かんだことにすぐ答えが返ったが、これもいつものことだ。大体、ロライゼ様とラフィエル相手に「心の壁」なんざ何の役にも立たねえからな。
 もっとも、ロライゼ様と違ってラフィエルはこっから先は立ち入り禁止だって印をつけておけば、読まれたくねえことを読んだりはしねえんだが。

「なんにせよ、助かった。悪かったな」
「私が君の力になれたなら良かった。ですが、『快癒』でその熱情が落ち着くのは一時のことですよ。この後の揺り返しを考えると、あまり良いことではありませんが……」

 さっきとは打って変わって身軽な動きで立ち上がると、ラフィエルは心配そうに俺の翼を撫でながら眉をひそめた。

「いいんだよ。とりあえず、今収まってくれりゃ。この後また発情期が来る前にいろいろと片付けりゃ済む話だろ」
「上手く行けば…ですね。くれぐれもそれがセリノスであることを願っています。そろそろだろうと心配しながら、あるいは笑いながらあなたの帰りを待つ女性たちもいるのですから」
「くれぐれもネサラにはぶつけるなってか?」
「あの子の心が君を望むなら、私はなにも言いません。でも、仮にあの子が淋しさに負けて君のぬくもりを望んだとしても、発情期の熱に浮かれて遂げられては君の誠意を疑われることになるでしょう」

 それだけ俺が荒々しいって言いたいわけか。
 淡く微笑んだ表情はいかにも鷺だが、口調ほど内容は優しくねえ。ったく、つくづく鷺の民はネサラが大事なんだな。

「君のことも大事ですよ。ただ、ネサラは私にとっても弟のようなものですからね。この二十年であの子が必死に作り上げた『鴉王』の姿を否定するつもりはありません。ですが、その鎧の向こうにいるあの子自身は何一つ変わらない。優しい子です。どんなに傷つけられても、それが自分のことならばあの子は最後に赦してしまう。それがわかっているから、私が先に君に言うのです」
「………ああ」

 それは、わかってる。
 なにがあったのかは訊かなかったが、あいつは昨日、泣いてやがった。
 あいつの涙なんか見たのは本当に何年ぶりかって話だ。正直驚いたが、言いたいことだったらなにか漏らすだろうし、それがないならなにも言いたくないってことだろう。
 セフェランとの間でなにがあったのか、どんな話があったのか気にならねえわけじゃもちろんないが……それでもだ。
 なにより、俺の手から逃げなかった。
 たぶん、俺が本気で仕掛けても最後まであいつは口先以上の抵抗はしなかっただろう。
 俺は鈍いからな。ただ伝わってきたのは、そして俺が感じられたのは淋しさだ。まるで縋るように俺の体温を求めたネサラを抱きしめてやろうとして、……引き金になっちまったわけだがな。
 まあどっちにしろ、そう時間を置かずに発情期には入ったんだ。ネサラには後で適当に言っておくとしよう。

「気にしていますよ」
「あ?」
「ずいぶん気にかけて構っていたのに、急に君が自分を避けたことを、きっと気にしています」
「そ、そうか?」
「はい」

 またそりゃ、面倒臭えな。
 そうは思ったが俺を見て微笑むラフィエルから無言の圧力を感じて頭を掻くと、俺は「わかった」と答えて先に羽ばたいた。

「ニケが心配してるといけねえ。戻ろうぜ」
「はい」

 手を伸ばして促すと、ラフィエルが当然のように俺の手を取って羽ばたく。鷺の民特有の風に寄り添うような軽やかな羽音が耳に届く。
 もっとも、もうラフィエルは飛べねえ。音だけだ。
 片腕で華奢な身体を抱えて飛ぶと、それでもラフィエルは心地良さそうに目を細めて眼下の緑を見渡した。

「ハタリに緑はないんじゃねえか?」
「森という意味では……。ですが、女王の瞳の緑が、私にとっての森そのものです」
「そうかよ」
「はい」

 鷺の身なのに、灼熱の砂漠の国でも生きていける。そこに伴侶と定めた女がいるから…か。
 か弱い見掛けをしていながら、なかなかどうして。やっぱりこいつはリュシオンとリアーネの兄貴だ。内にある芯はそう簡単に折れたりしない。

「帰って来いよ。移住するんだろ? セリノスの森はもう狼を受け入れるつもりでいる。ガリアもな」
「いつになるかはわかりませんが、そうですね。民の全てがこちらに移るわけではないでしょうから、段階を追ってのことになりますが」
「向こうでしか取れねえスパイスもあるだろうが。ヤナフが行くんだ。オアシスも正確に地図に記す。スパイス畑の面倒も見なきゃならねえし、そういうのは交代制にすりゃいいさ」
「それはいい考えですね。女王に話しましょう」

 なにより、俺にとっちゃこいつも数少ねえ対等なダチだ。本当は移住までの間だって帰したくねえ。
 そう思って言うと、ラフィエルは白い花のように微笑んで俺の頬を撫でた。
 十字の傷が入った方だ。昔、気の触れた獅子と…違うか。今思えばあれはなりそこないだな。獅子のなりそこないと戦った時についた傷だった。

「帰ってきますよ。私も、女王も。ふふ、実は君はネサラよりよっぽど淋しがりやですからね?」
「うるせえ。そんなわけあるか。俺はちょっと淋しいぐらいでめそめそ泣いたりしねえぞ」
「そういうことにしておきましょうか」

 ぷいと顔を背けたところで、下から密林に潜む獣のような気配を感じる。ラフィエルの伴侶、狼女王ニケだ。
 俺とラフィエルが戻ったのを感じて出てきたんだな。ニケが小さな王宮の中庭で立ってるのが見えた。

「よく帰ったな、鳥翼王。鴉王が言っていたが、またすぐに発つそうだな?」
「ああ。まだいろいろと片付いてないんでな」

 俺の腕から降りるラフィエルを愛しそうに片腕で抱き寄せると、ニケは濃い緑の視線を上げて笑う。
 いろいろと聞きたいことはあるが、とりあえずは執務室に行くべきかも知れん。
 なにも言わなくてもニケもわかったんだろう。小さく頷いて先に王宮の中に入る。人型だから階段を使うんだな。
 あちこちから俺に向かう視線が増えていた。鷹と鴉だ。鴉の方はニアルチの説明の効果があったか、以前ほど険はねえ。たまたま俺とすれ違ったネサラの腹心、シーカーも慌てて俺に一礼したあとは、ネサラに会いに行くんだろう。もう待ち切れねえと言わんばかりの勢いで飛んで行った。
 ただ、鷹の民の視線は……微妙だな。面白がる視線も増えたが、なにやら含んだ視線も増えた。
 俺のいねえ間にせっせと活動したんだろうさ。鴉たちを受け入れたこと、ネサラを赦したことで反発していた連中と、鷹王のころから俺が王位にあることに不満がある連中がそれを隠さなくなったって感じだ。
 それでも、俺と目が合うとこそこそするって辺りが面倒臭え。言いたいことがあるならはっきり言えよ。それでもてめえらはラグズなのか!? って気分だぜ。
 うんざりとした気分で執務室に入ると、控えていたウルキが無言で引き出しの鍵を差し出す。まずは書類の確認だ。

「これだけか?」

 思ったより少ねぇな。不思議に思って訊くと、ウルキがにこりともせずに答える。

「鴉王に回せる分は先に渡しました」
「ネサラにか? じゃあ、自分の執務室に来るんだな」
「はい。…王が疲れているようだから、よく休ませるようにと。今はシーカーの報告を聞いています。……一部の鷹の不穏な動きを気にしていたのでしょう。それから、鴉の娘の話を」
「そうか」
「はい。王…狼女王が来られました」
「通せ」

 本当に余計な心配をかけたかも知れん。ネサラには後から言っとくか。
 そう思いながら凝った首を鳴らすと、ウルキがニケを通して外に出た。まあ部屋の外に出たぐらいじゃあいつには筒抜けなんだが、一応形だけでもってところだ。

「わざわざ足を運ばせて悪ィな」
「いや。娘の傷だが、身体の方はずいぶんましになった。今ならそなたに会って話もできよう」

 身体の方は、か。……こんなことは心の方が深い傷を負うもんだ。
 ニケの言葉に頷くと、俺は急ぎの書類がないことを確認してからテラスに出た。

「私も共に行こう。そなただけでは会うことはできぬだろうからな」
「それもそうか。気を遣わせちまうな」
「なに。気にするな。この類の心の痛みは同じ女にしかわからん」

 ここは三階だ。降りるなら手を貸そうと思ったんだが、ニケはそれを読んだようににやりと笑い、化身して鮮やかにそばの木や壁の窪みを利用して下まで降りた。
 狼ってのはなかなか身が軽いんだな。いや、猫も身軽だが、たいしたもんだ。
 俺もニケの横に降りると、ニケはまた人型に戻りながら言った。

「気持ちは有難いが、鳥翼族のそなたが私を運ぶのは一苦労だろうと思ってな」
「そうか? ……ああ、そういや獣牙族は見た目より重いからな」
「そうだ。竜鱗族ほどではないがな。では、行くぞ」

 猫のライも見た目はベオクの普通の男と変わらないが、いざ担ぐとかなり重い。スクリミルなんざ化身前でも俺が化身してようやく運べるぐらい重いからな。
 あの女神との戦いで三部隊に分かれて塔を目指してる時にゃ、それでネサラが苦労したらしい。
 スクリミルの化身が解けちまって危ないから担いで退避させたくてもネサラじゃどうにも運べねえ。かといって放っておくわけにもいかねえし、アイクのところの小さい方の弓使い、ヨファか。ヨファもいるし、弩持ちは近づいてくるしってんで、じいさんが命がけで特攻しようとしたそうだ。
 もっとも、その前にスクリミルがオリウイ草を貪り食って化身しなおして蹴散らしたらしいが。
 もしネサラやじいさんが弩で撃たれでもしたら間違いなく致命傷だ。それまであのスクリミルがオリウイ草を大事に持っていたことに感謝しなけりゃな。
 ニケの案内で着いたのは鴉たちの居住区の一番奥、寡婦たちの住む小さな家だった。
 ここに行くまでの間に眉をひそめた若い男の鴉もいたが、ニケと連れ立った俺が来る用件なんざ一つしかねえ。中年の鴉の女が俺を止めようとした若い鴉を追い払い、俺が扉を開ける前に畑から戻った年老いた鴉の女が色の褪せた翼をたたんで地に膝をつき、最上位の礼を取る。

「これは…鳥翼王さま……」
「娘に会いに来た」
「鳥翼王さまに見舞われるなど、もったいないことです」
「ゲルダよ。そなたらの気持ちはわかる。だが、ここは王としての責を全うさせてやってもらいたい」

 俺には平伏しながらも頑なな目をしていた老婆が、ニケの言葉には渋々と立ち上がった。

「あの子の傷は癒えてはおりません。王よ、どうか……」
「わかっている。無理を言ってすまん。おまえは娘の身内か?」
「いいえ。あの子の身内は母親だけ。その母親は心労で臥せっております」
「そうか。……わかった。他にも怪我を負った者がいるそうだが」
「はい。止めようとした者が数名ほど。ですが、鴉では娘より傷の重い者はおりませぬ。鷹の戦士の方が一人、あばらの骨を折ったそうですが」
「わかった」

 その鷹の見舞いは後だな。
 俺を見る女たちの視線は痛い。だが、ここで俺がしょげ返ったって仕方がねえんだ。
 それに本来、鴉の寡婦の家に王とは云え男が立ち入るのはあっちゃならねえことだ。その点はキルヴァスのころとはもう違う。
 中に入ってきた俺を見て固まった鴉の女にはニケがとりなしてくれたが、わかっていてその決まりを破るのも申し訳ねえ気持ちで俺は質素な家の二階を目指した。

「私だ。鳥翼王を連れてきた。入るぞ」

 先に入ったのはニケだ。扉を開けると、窓の小さな部屋にこれまた小さな寝台があって、その上に鴉の娘が起き上がっていた。

「動くな。傷に障る」

 俺の名を聞いて慌てて寝台から降りようとしていたのは、小柄な、華奢な娘だった。
 隠そうとしても俺を見た瞬間から怯えた娘の傷だらけの翼は小さく縮こまり、殴られでもしたんだろう。青ざめた頬や口元にはまだ色のついたままの痣があり、片腕には添え木がされ、まだ動くには不自由そうだ。

「……鳥翼王」

 そんな娘の姿を見たとたん、胸に湧き上がる怒りに改めて俺の翼と拳に力がこもり、ニケに窘められた。
 そうだ。俺が娘を怯えさせちゃいけねえ。

「わたしのような者のところに、鳥翼王さまがわざわざおいでくださるなんて…もったいのうございます」
「何を言う。当然のことだろう。今回のことは、俺が詫びて済むことじゃねえが……」

 不自由に身体を折り曲げるように細い声で言った娘が頭を下げて、黒い髪が流れ落ち、白い首筋が露になる。俺どころか、普通の体格をした鷹の男なら片手で簡単に掴めそうに細い。
 歳も聞いた。歳も体格もリアーネと変わらねえぐらいだ。こんな娘に、あろうことか鷹の男がこんな真似を…!!
 文字通り、目の前が真っ暗になった思いがした。情けなさ過ぎて言葉が続かねえ。

「そんな、お顔をおあげください。詫びなど、わたしに必要ありません。それよりも鳥翼王さま……」
「なんだ?」

 だが、頭を下げようとした俺を慌てて止めると、娘は止めるニケを振り切るように寝台から降りて言った。

「このことは、どうかネサラさまにはご内密に……。わたしは平気です。だから、」
「それは無理だ。第一、ネサラはもう知ってる。すぐにでも見舞いに来るだろう」

 賠償や保障でどうにかなることじゃないが、それも踏まえて今回の件で話し合いしなきゃならねえ。俺は鳥翼王だが、鷹の代表者だ。そしてあいつは鴉の代表者だからこそ。
 そう言い終わる前にひたむきな目で俺を見上げた娘の濃い灰色の目に涙が盛り上がり、頬に滑り落ちた。

「そんな…そんな…!」
「すまん。だが、必要なことだ。キルヴァスはなくなっても、あいつは『鴉王』だ。鴉の身に起きたことであいつを通さずに話をするってのは難しい。わかるだろう?」

 鴉の娘にとってネサラは王である以上に、伴侶のない内はただ一人淡く甘い心で恋い慕うたった一人の男でもあると聞いたことがある。
 そんな男にこんなことを知られることが切ない気持ちもあるかと思ったが、それは俺の浅はかな考えだった。

「こんなことを知っては、きっと傷つきます…! いつもいつもあの方はわたしたちのことでたった一人で傷ついてきて…それなのに……!」
「そんなに泣くな。身体に障るだろう。さ、寝台に戻るのだ」
「ニケさま、でも、わたし…!」
「そなたの気持ちはわかっている。ほら、また熱が出るぞ」
「鳥翼王さま、一方的な乱暴ではありません…! わたし、同意しました。鷹の方を受け入れました…!! どうか、どうかネサラさまにはそうご説明を…!」

 ニケに抑えられるのを振り払うように俺に詰め寄ると、娘が俺の腕に爪を立てるほど必死に縋り、懇願してきた。
 同意の上なんて、この有様を見てそんな嘘を信じられるはずがねえ。だが、怯えながらそれでも俺に取り縋る娘の必死の思いが伝わって、俺まで苦しくなった。

「それがたとえ同意の上でもだ。おまえの姿を見て、怒りを覚えねえヤツはいねえ。誰よりも俺が赦せん」
「いいえ…! いいえ! いいんです。こんな怪我、なんともありません。すぐに治ります。鳥翼王さま、お願いです。どうか、どうか…!」
「ティゼ、ほら。寝台に戻るのだ」

 それでもニケの制止を振り切ると、娘は力尽きたように崩れかけ、慌てて抱きとめた俺の腕が痛かったように全身で離れた。
 これは俺が迂闊だった。ニケが何箇所も痛ましく羽根の抜けた翼をばたつかせて飛び退った娘を抱きとめ、怯えた目をして息を止めた娘を抱き、もう一度寝台に戻す。

「ち…鳥翼王さま…ネサラさまがもしわたしのことで抗議なさっても、どうか…お聞き入れはなさらないでください……」
「いや、それは」
「確かに、合意の上でした…! どうか爪一本たりとも、これ以上ネサラさまには触れないで……」

 ズキリ、と、どこにあるかもわからねえはずの心が痛んだ。
 ネサラと俺の噂は誤解だ。そう言い切れねえ負い目があったからだ。

「あの方は辛いばかりの王位を投げ出さずにわたしたちを守ってくれました。もうこれ以上は……どうか、鳥翼王さま……」
「わかってる。フェニキスのことも、遺恨がないわけじゃねえ。だが、それについての話し合いは終わってる。ネサラを俺が傷つけることはねえ。他の鷹にもさせねえ。それは約束する」

 熱と涙で潤んだ灰色の目が俺の本心を見抜くようにひたりと向けられた。
 逃げ出したくなるほどに清冽な、真摯な眸だ。だからこそここで逸らすわけにはいかねえ。

「ただし、おまえの受けた痛みを見過ごすことはできねえ。これは王として当然の義務だ」
「でも……鷹の方を…罰したりはなさらないでください……」
「それはできねえ。おまえが鴉だからじゃねえぞ。種族は関係なく、それだけのことをしでかしたんだからな」

 また娘の頬に大きな涙が滑り落ちた。そんなことになって、またネサラに鷹の怒りの矛先が向かったら困る。
 娘の気持ちはわかったが、これだけは俺も譲れねえ。

「あ…ああぁ……っ」
「さあ、身体に障る。もう休め。心配せずとも鳥翼王はそなたの思いを無碍にはしない。もしものことがあれば、この私が鴉王を守ろう。たとえ、全ての鷹を敵に回そうともだ」

 泣き崩れた娘をニケが支えて寝台に寝かせる。それから緑の隻眼を向けられて、俺は素直に部屋から出ることにした。
 あの場で俺がどう言葉を尽くそうと娘の気は晴れなかったろう。腕に残る娘の汗ばんだ手の感触が堪らなく苦かった。
 あんな状態で男に会うだけでも…いや、違うか。鷹の、ましてや王である俺に会うのにどれだけの精神力がいったか。考えるだけで哀れでならねえ。
 鳥翼族の家にしては低い天井を仰いで深い息をつくと、俺は意識して気を鎮めながらニケを待った。
 娘を興奮させちまったから容態が気になったんだが、大丈夫だったらしい。
 しばらくして出てきたニケと共に家を出ると、俺は鴉の老婆に一言詫び、すぐに鴉の住居から離れた。

「堪えたか?」
「……ああ」
「おまえは王としてまだ若い。受ける痛みはまだこのようなものでは済まぬぞ」
「どういう意味だ?」

 忠告するニケの含む揶揄にさえ冷静になれずに低く問い返すが、ニケはなにも答えずにそのまま歩き出した。
 次に向かった先は訓練場の端の物置だ。ラグズにはめったにベオクのような犯罪を犯す奴はいねえ。牢を兼ねた作りだが、ここも酔っ払って暴れる奴を放り込む程度にしか考えていなかった。
 それがまさか、こんなことで実際に使われることになるとはな。

「王……」
「ヤナフ、通せ」

 いつもだったらうれしそうに寄ってくるガキどもも若い鷹も、遠巻きだ。
 真っ先に俺を見つけてそばに降りたヤナフに一言短く言うと、ニケも静かに頷き、ヤナフは諦めたようにため息をついて前を歩き出した。
 前についていた鍵は間に合わせだったこともあって丈夫なものじゃなかった。今回のことがあって急遽取り付けたんだろう、大きな鍵を外したヤナフが扉を開け、薄暗い中に入る。
 細く開いた窓の光だけが差し込む冷えた小屋の中、藁を敷いた床の上に、大柄な鷹の男が座っていた。
 俺が来たのは気配でわかったはずだ。だが、男は顔を上げようともしねえ。
 ヤナフが心配そうに俺と男を見比べるが、自分でも不思議なほど冷静だった。
 あんまり腹が立ちすぎると逆に血が引く。そういうことかも知れねえな。

「言い訳はあるか?」

 俺の問いかけに、男の翼がわずかに動く。遅れてじっと床を見ていた目がのろのろと上がった。昏い、感情の伺えねえ目だった。

「もう一度訊く。言い訳は、あるのか?」

 ヤナフが俺の腕を押さえる。うぜえな。殴りゃしねえよ。
 低くなった俺の声に、ようやく男の口が開いた。

「聞く気があるのか?」
「……どういう意味だ?」
「王!」

 ほとんど無意識に俺とそう体格の変わらねえ男の胸倉を掴んで引きずり上げた俺の腰にヤナフの両腕が巻きついたが、俺は構わずに男の目をまっすぐ見ながら訊いた。

「鴉どもを…あの鴉王を赦したあんたが、俺の話を聞く気があんのかって訊いてるんだよ…ッ」
「てめえのやったことに鴉もネサラも関係ねえ。どういうつもりで言ってんのか、話はそこからじゃねえのか?」

 喉が絞まって息遣いが不規則にはなったが、怯えてるわけでもねえ。だから俺も構わず言うと、男の手が俺の腕を掴んだ。
 互いの腕にぎりぎりと音を立てて筋が浮かぶ。ようやく翼をばたつかせて藁を蹴散らすように足をつけると、男がかすれた声で言ったのだった。

「俺の弟は…フェニキスにいた……」

 フェニキスが焦土にされた時、戦士以外の犠牲者がまったくなかったわけじゃねえ。それはわかってる。
 だから黙って続きを促すと、初めて真正面から俺を見た男の目に炎のような激情がひらめき、だが逆に声は恐ろしいほど静かに続きの言葉を紡いだ。

「弟は、戦士だ。だから、しょうがない。けど、妹は…」
「妹?」
「妹は、戦士でもなんでもない。まだ、子どもだった。弟が翼を痛めて飛べねえから、だからそばについてるとフェニキスに戻りやがって…」

 そこまで言われて、俺もわかった。
 犠牲者の中にいた戦士以外のわずかな鷹。子どもと言ってもいい年齢の者も二人、含まれていた。
 そのうちの一人か…!
 ヤナフが片手で顔を覆う。
 俺の顔色が変わったことがわかったんだろう。男の口元が乾いた笑みで歪み、しゃがれた声で言ったのだった。

「あの鴉の娘より、幼かった。けど、乱暴された。ニンゲンにだ。翼をへし折られてよ。向こうの司令官だって本意じゃなかったんだろうさ。わざわざそいつの首を跳ねて、詫びいれたそうだ。掴みかかった弟を斬り捨てておいて、戦えねえ年寄りがよろよろ抗議する拳を黙って受けて、『すまない』って何度も詫びたって……けど、それがなんだ?」
「待てよ! それは、王のせいじゃ…」
「ヤナフ、黙ってろ!」

 違う。俺のせいだ。
 男の胸倉を掴んでいた手から力が抜けて、音を立てて男が藁の上に崩れ落ちた。
 のろのろと上がった視線にまともにぶつかって、俺は一瞬なにも言えなくなる。

「妹はなあ、死んじまったよ! 必死に抵抗して、抵抗して、ニンゲンに首をへし折られてよ! 鴉どもが裏切らなけりゃ、こんなことにならなかったんだ! 違うか!? 鴉なんか赦せるかよ! あんたが赦しても俺に関係あるかッ! 俺を殺せよ! でなけりゃ、あんたが護ろうとしてる鴉どもを一人残らずこの俺がぶち殺してやる!!」
「馬鹿野郎!」
「王!!」

 狂気に駆られたように叫んだ男が吹っ飛んだ。俺が殴ったからだ。
 ヤナフがまた俺を止めようとかじりつくが、そんなもんで俺が止まるわけがねえ。
 もう一度男の胸倉を掴んで引きずり上げると、俺は口元の血を拭う男の背を薄い壁に叩きつけるように立たせて言った。
 こいつが吐いたのはどんな事情であれ、赦せる言葉じゃなかったからだ。

「それが理由だったら、なぜ鴉の娘に手を掛けた!? てめえの怒りを向けるべき先は、ネサラか俺じゃねえのか!? てめえの怒りは、よりにもよって一番弱えあんな娘に向かった時点で薄汚れてんだろうが!!」
「ちが…ッ」
「違わねえ! 妹のことを言い訳にするな!! フェニキスで戦って死んだ鷹たちには誇りがあった! てめえがやったことはその仲間たちの誇りを泥にまみれさせただけだ!!」
「ティバーン、もうやめろ!!」

 狭い小屋の中に茶色い羽が飛び散る。胸倉を掴んだ俺にほとんど振り回されるような状態になった男の羽と、俺を止めようと必死にむしゃぶりついたヤナフの羽だった。
 赦せねえ…!
 こいつの怒りが俺に、ネサラに向かうなら当然のことだ。
 あるいは、鴉の戦士にだったら、それもまだ当然だと言えた。
 だが、そんな無残な死に方をしちまった妹と同じことを、鴉の娘にしやがったってのは赦せる話じゃねえ。
 ましてこいつは俺と変わらねえようなガタイだ。
 そんな男が、あんな華奢な娘をよくも力ずくで…!!

「ぐ…ッ!」
「ティバーン!!」

 小屋を揺らして男が転がり、俺の拳が音を立てて軋む。息を切らせたヤナフにかじりつかれながら、俺は荒れた息を殺せずに頭を抱えてただ「畜生、畜生」と繰り返す男を睨み下ろした。
 今、ここですぐに手を下せねえことがもどかしい。それほどに俺は腹を立てていた。

「ティバーン、おれだって同じ気持ちだ。だけど、だけどよ…!」

 この男を殴らねえよう堪える拳が震える。その俺の拳を両手で掴んだヤナフの声は、泣き出しそうにかすれていた。

「家族を殺されたこいつの気持ちだって無視していいもんじゃねえだろが…! おれだって、一時は鴉王を殺そうと思ったさ!」

 それは、俺だって同じだ。
 赦せねえ。
 この戦いが終われば……ただそう思って俺はあの女神の塔に入った。
 だが、事情を知った後、ネサラに対する怒りはそのままベグニオンに、元老院に対する怒りに変わった。
 僅かな間に痩せたネサラの身体を知った。ただひたすらに苦しんでいたあいつの痛みを知った。俺に殺されることでもう次代の王さえいない鴉たちを救おうと、そして俺たちに償おうとしたあいつの心を知った。
 だが、あの塔に入っていねえこいつらにそれを知れってのは無理な話だ。
 それは俺だってわかってる。

「けどさ、けど、そんなこと、できねえだろ…! 復讐なんて、できっこねえだろ! こいつのやったことは卑怯だよ。赦せねえよ! おれたちだってわかってるよ! だから…庇えねえよ、けどさあ…!!」

 必死に俺に言い募るヤナフの子どもっぽい顔がくしゃりと歪み、ヤナフは俺の頭を小さな身体に抱え込んで搾り出すように言ったのだった。

「ここでこいつをおまえが裁くのは、あんまり辛ぇじゃねえかよぉ…!!」

 ヤナフの腕に力がこもって、頭に熱い雫が落ちた。
 いつだって陽気な兄貴分だったヤナフが泣いていた。
 ……こいつの涙は、いつでも仲間のためだ。
 つられたように男の口からも嗚咽が漏れた。
 今も、頭を抱えて泣くこの男のために、そして俺のために泣いてるんだろう。
 怒りで焼ききれそうな神経が、かろうじて繋がりを取り戻す。
 手のひらに食い込んだ爪がゆっくりと離れて、ようやく地面に滴る自分の血の音に気がついた時、俺と男の間にもう一つの人影が割って入った。
 てっきり忘れてたんだが、そうだ。ニケもいたんだったな。

「ニケ?」

 なんのつもりだ?
 もう俺は落ち着いてるぜ。
 そんなつもりで鼻をすするヤナフを引き剥がすと、一人冷静なニケが「ふむ」となにやら首をかしげて男の前に片膝をつく。
 しゃがみこんだ男に視線を合わせるためだろうが、まさか狼女王にそんなことはさせられねえ。
 だが慌てて立たせようとした俺とヤナフより先にニケが口を開いた。

「おい、貴様。その話はまことか?」

 涙に濡れた男が不思議そうな顔をしてのろのろと顔を上げる。その男の涙を優しく拭うと、ニケはもう一度言った。

「そなたの話だ。その話は誰から訊いた?」
「あれ? そう言えば、そうだよな」

 どういうことだ?
 ヤナフまでごしごしと涙を拭いて男のそばに屈んだが、意味がわからねえ。
 男は目を瞬いてニケとヤナフの二人の顔をしばらく見ていたが、ようやく言われたことの意味を悟ったようにのろのろと答えた。

「リゾーから……」
「リゾー!?」
「妹と…弟の最期を看取った年寄りから聞いたと……俺は、そんなことも知らねえで王について戦に…うぅ……」

 名を聞いた瞬間、ヤナフが険しい顔をした。俺もだ。
 まさかとは思う。思うが、しかし……。

「その年寄りとやらは? まさか都合良くそのリゾーとやらにその話をして事切れたという話ではあるまいな?」
「え……」
「いや、この言い方ではちと意地が悪いか。その男、もちろんそなたのように鳥翼王の行軍の中にはいなかったのであろう? そなたらがフェニキスの壊滅を知った時期を考えれば、先の話ではどうも辻褄が合わぬ気がするので念のため訊いたのだ。焦土と化すほどの激しい戦だったのだ。そのフェニキスに残り、無事にその話を伝えられたならそのリゾーという男は本当に運が良かったのであろうが、もしその男が戦士だったのであれば、さぞ重い傷を負ったのだろうな」

 ……あの行軍中でフェニキスに残っていた戦士は僅かだ。それも怪我を負っていた者の他は歳を取って一線を引いた者のみ。俺が後を託したのは馴染みの女戦士で、いざって時にはなによりも民の命を第一に考えろと言ってある。
 国が焼かれようとも、民が生きてさえいればそれでいい。そのことをちゃんとわかってる戦士だ。
 だから動けねえ連中を護って戦ったヤツの他は生きていた。
 リゾーは初代の王の血縁者でそこそこの実力はある。王になりたがっていたのは俺も知ってたが、しかし……。

「いや、リゾーはいっしょに行軍してた! 間違いねえ!」
「本当か?」
「ああ。あいつ、いっつもティバーンのことをグチグチ言ってやがって、あの時もそうだった。ウルキが顔をしかめてたんだ。だから知ってる!」

 ヤナフの声に、男がぼんやりとニケを見た。
 まさかと思ったさ。
 あいつが俺を引き摺り下ろしてえってのは知ってる。反王派の筆頭の一人だってのもな。だが、いくらなんでも同胞を、それも弟と妹を失ったヤツの悲しみを利用するなんてあるか?

「ほう、王とともに行軍していた、か。さて、そのリゾーは一体いつその年寄りに話を聞いたのだ? あの女神との戦いが終わってからか? そこまで生き長らえて逝ったのであれば、他にもその年寄りの話を聞いた者がいても良さそうなものだと思うのだが」

 にやりと笑ったニケの言葉に、男の顔色が変わった。

「あ…王よ……」
「………いねえのか?」

 青くなった男が口元を抑え、俺を見て頷く。

「でも…! 妹は、妹は……!」
「遺体を改めたのは誰だ? 女の戦士だろう? なにか言ってたか?」
「首の骨が折れていたと…ほかは……俺は…なにも聞いては……。リゾーは、俺が哀れで言えなかったんだろうと……」
「よし! 事実はおれが確認してやる!」

 そんなはずがあるかとは言えなかった。俺も、ヤナフもだ。
 もしもさっきの話が事実なら、妹の身体にはそんな傷があっただろう。だが、たとえ女でも鷹の戦士なら、残されたこの男が哀れに思うからといって事実を隠したりはしねえ。
 それこそ、その痛みを返すべき正当な相手に怒りを向けるために言う。必ずだ!

「た、鷹王、俺は…!」
「てめえのやったことは赦せねえ。俺が裁く。だが、まずはこの話の真偽を確かめてからだ」

 昏い憎悪の炎が消えて、代わりに男の眸に浮かんだのは縋るような光だった。
 だがそれはてめえの命を惜しんでのことじゃねえ。それがわかって立ち上がると、俺はニケに背を叩かれて小屋を出た。
 話が聞こえてたんだな。小屋の外にいた鷹の戦士の顔はどれも怒りに燃えてやがった。

「王! 命令してくれ! この俺がリゾーのヤツを捕まえてきますぜ!!」
「俺も行くぜ!」
「おれだって!!」

 とうに現役を退いた教官役の親父が叫べば、若い兵たちも揃って拳を振り上げる。中にはロッツもいやがった。
 この俺自らヤツの首を掴みに行こうと思ったんだが、その前に今度は血相を変えたリュシオンが飛び込んできた。

「ティバーン…!」
「リュシオン? どうした?」

 この場の怒りの感情がどっと押し寄せたんだろう。一瞬息を詰めて落ちかけたリュシオンに慌てて飛び寄ると、顔色をなくしたリュシオンが顔を上げて言った。
 それもまた驚くようなことを。

「来てください! ネサラが…!!」
「ネサラ? ネサラがどうした!?」
「鷹の戦士たちがネサラに詰め寄ってるのです! フェニキスの責任を取れと! それも、リアーネを人質にして…! ニアルチがやられて、兄上も倒れてしまって…!!」
「ラフィエルが? おのれ…!」

 俺よりもニケの怒りが先に迸った。ひときわ鮮やかな化身の光が輝いたと思ったら、次の瞬間には矢のように白銀の狼が駆け出す。
 気持ちは俺だって同じだ。ネサラに詰め寄るだけならまだしも、鷺の女を人質にしやがるとは鷹の風上にも置けねえ!!

「他の鷹は!?」
「まだ知らせていません! ウルキがいっしょにいて、あなたと鷹の男の話が聞こえると言って…! それまではネサラもおとなしく話を聞いていたんですが、それで一体どういうことだって話になって、それで男が詰め寄ったニアルチを突き飛ばし、リアーネを…!」

 俺は最後まで話を聞かずに飛んだ。ヤナフもだ。
 俺とヤナフの形相に何事かと訝しがる連中もいたが、俺は何も言わずにリュシオンを片腕にさらってまっすぐ王宮に飛び、先に着いたニケが獰猛な唸り声を上げる鴉王の執務室のテラスに下りる。

「入ってくるな!」
「リゾー、てめえ…!」

 唸るようなヤナフの声に、先にテラスにいた数人の鷹が振り返る。
 なんだ? こいつらもリゾーの仲間なんじゃなかったのか?
 遅れて降りたリュシオン連れの俺の表情で意味を悟ったのだろう。部屋の中にいるウルキが説明してくれた。

「その男たちも王に仇なす者です。ですが、さすがに鴉王の首が狙いとは言え…年寄りに怪我を負わせた挙句、鷺の姫を人質にする卑劣極まりないやり口は赦せぬと」
「……リアーネを人質にしなくても、ネサラはたとえてめえが殺されたって、てめえらの羽根の一本さえ傷つけることはなかったろうよ。おまえらはそんなこともわからなかったのか?」

 俺の低い声に数人いた鷹の戦士は顔を伏せ、執務室の椅子に座ったままのネサラは眉をひそめて「買いかぶりすぎだろ」とほざいていたが、それよりもラフィエルとニアルチ、リアーネだ。

「兄上!」
「入ってくるな! 入ってきたらどうなるかわかってるだろうな!?」
「ううう…ぼっちゃま…リアーネお嬢さま…!」

 厚い絨毯の上に顔色をなくしたラフィエルとニアルチが倒れているが、ネサラはもちろん、ウルキも動けねえ。リゾーの野郎がリアーネを片腕で抱き込んでるからだ。

「あ、あ、あ…むかつくッ! ティバーン、おれに命令しろッ!! あのクソ野郎、八つ裂きにしてやる!!」
「………私に命令を。赦せぬ」

 団子頭が乱れるのも構わずに頭をかきむしって唸ったヤナフと低く言ったウルキに答えず、俺は石造りのテラスに足をつけてぎらぎらと落ち着かねえ視線でこちらを伺うリゾーを正面から睨んだ。
 彫りの深い、いかにも鷹らしい荒っぽい作りの顔だ。こいつの叔父だった初代の鷹王は、俺から見ると多少思慮に欠けるところはあったが、それでも十分に王として、戦士として大きな存在だったと思うし、また年寄りの昔語りでもそう聞いている。
 だが、こいつが受け継いだのはその王の欠点と、鷹の中でもひときわ立派な体格と、腕力だけじゃねえのか?
 ああ、あとは鷹の中では頭が良いと言われていたんだったか。こんなつまらん策を弄する程度じゃ、ただの自惚れだったんだろうけどよ。

「くそう、ティバーン…よくも……!」
「おい。念のため言っておくが、今回のおまえの企みがばれたのはティバーンのせいじゃないだろ。そこにいるやたら耳の良いヤツのせいじゃないのか?」

 火を噴きそうな目で俺を睨んで唸るリゾーに言ったネサラの台詞に、押さえ込まれて動けねえリアーネもこくこくと頷く。

「やかましい! そもそも、おまえが悪いんだッ!」
「きゃっ」
「おい、リアーネを掴んだまま興奮するな。ころころ話の変わる奴だな。さっきはティバーンが全部悪くて、今度は俺か。どっちでもいいが俺は逃げるつもりはない。リアーネとラフィエルだけでも外に出してくれないか? できれば、そこの老いぼれもな」
「ふん! そんなことをすればあの狼女王とティバーンが入ってくるだろうが! 俺は強い。強いが、さすがにあの二人とこんな部屋で戦り合うのはごめんだ。大体、この老いぼれもこの俺に掴みかかろうってのが片腹痛い」

 リゾーの最後の一言に、ニケと俺よりもネサラの視線に鋭いものが含まれた。
 本気で言ってるなら、本当にどうしようもねえ奴だ。俺の横にいるリュシオンの視線もきつくなる。
 あんな男に捕まったままじゃ、鷺の身にはさぞ堪えるだろうよ。リアーネが心配だ。
 とにかく、どうにかしてリアーネから離れさせなきゃならねえ。そう思ったんだが、リュシオンと同じように、リアーネも普通の鷺の規格からは外れていやがった。

「はなしなさい」
「なんだと?」
「わたしは、わたしのもの。あなたにはかけらもあげない」

 なんだ、そりゃ?
 ぽかんとした俺たちの代わりにリュシオンが叫んだ。

「当たり前だ! リアーネを貴様の嫁になどさせるかッ!!」
「………ネサラ、なんとか言ってやれ」
「ぼっちゃま…!」

 そういうことかよ。思わずネサラに声をかけると、ニアルチもよろよろと起き上がってネサラを見る。
 呆然としたのはネサラも同じだった。

「なんでそんな話になってるんだ?」
「このひと、わたしを妻にするって。ムリでも妻にしたら、逃げないって。わたしは白鷺の王女だから、鳥翼王さまになったらふさわしいからって。ネサラ、わたし、イヤ!」
「おい、おまえ」

 眉をひそめたネサラが、柳眉を逆立ててまくしたてるリアーネからリゾーに視線を移して口を開く。
 俺も久しぶりに耳にする、ネサラらしい辛辣な台詞だった。

「恥って単語の意味を知ってるか?」
「き、貴様ァ……!」

 顔色をドス黒く変えて唸ったリゾーの怒りに打たれたリアーネが息を呑んで縮こまるが、膝は折らねえ。
 きっと怯まずに睨み上げたリアーネから立ち上る気に気圧されるようにリゾーが視線を奪われた間に、ネサラが立ち上がる。
 あまりに自然で、ネサラの動きにリゾーが一瞬気がつかねえほど鮮やかな身のこなしだった。

「ゆるさないわ」
「な、なんだと!?」
「あなたはネサラを傷つけた。ニアルチや兄さまだけじゃない。ほかのひとも。とても、とてもひどいやりかた」

 リアーネの春の若葉色の双眸に金色の光が浮かぶ。その光は華奢なリアーネの全身にまで広がり、その光に気圧されるようにリゾーの手が離れる。

「リアーネ……!」
「ラフィエル!」

 同じように怒りに燃えていたリュシオンが心配して妹を呼んだ。その一瞬の隙を逃さず、ニケが倒れたままのラフィエルの元に駆け寄る。
 これまでだな。もうリゾーに逃げ道はねえ。

「く、くそ…!」
「あ、この野郎! 年寄りまで人質に取るか!?」

 ヤナフが怒鳴るが、ったく、ニアルチが人質になるかよ。それならまだリアーネの方がましだったろうに。
 ………ネサラの逆鱗に触れるって意味じゃあな。

「おい」
「か、鴉王! ティバーンもわかってるだろうな!? 妙な真似をしやがったら…!!」

 思った通り、落ち着き払っていたネサラの声が低くなる。ひっくり返った声でわめいたって遅いんだよ。
 みっともねえな。ニアルチを引きずり起こしたものの、隙だらけのリゾーに鋭く飛び掛ろうとしていたニケを僅かな仕草で止め、ネサラが優雅に黒い翼を広げた。

「言っておくが、ニアルチは人質にはならないぞ。その老いぼれは俺の足手まといになるくらいなら、その場で自決する」
「その通りですじゃ…!」

 それから、喉を鳴らしたリゾーに向かい、うっすらと微笑んで言った。研いだ刃物なんてものじゃねえ。
 すでにリゾーを見限って呆れていた鷹の連中だけじゃなく、ヤナフとウルキでさえ浴びた殺気に全身の羽根が逆立つほどの凄みを込めてだ。

「ニアルチが死んだら、その場でおまえは終わりだ」
「さ…鷺の前でよくも貴様……!」
「はン、俺といることを望むような規格外の鷺だ。今さらおまえの血を浴びたくらいで泣き出すほど可愛いタマじゃないさ」
「もちろん、その通りだとも!」
「わたしも、へいき!」

 ゆったりと腕を組んだネサラに、顔色は悪くても間髪入れずにリュシオンとリアーネが答えると、ニケに助けられてよろよろと身を起こしたラフィエルでさえか細く頷く。
 ああ、そうだな。倒れても泣きはしねえか。
 ……いや、ラフィエルは泣くだろうが。

「く、くそ、ティバーンの『女』の分際で!」

 あ、この馬鹿。それを言っちまったら……。

「ネサラは、男の子! ねえ、兄さま!」
「そうだぞ! いくら鷹に比べて鴉が華奢でも、ネサラは鴉の中ではちゃんと大きいだろう!!」
「ああ…なんてことを……」

 リアーネとリュシオンの剣幕に、ラフィエルは眩暈を起こしたようにニケの腕の中で顔を覆った。
 いや、俺の気分はラフィエルと同じだな。
 ざわりと、俺の首筋がチリチリする。ヤナフとウルキのじと目が俺に向けられた現状が一番頭が痛いが、俺が口を挟むまでもなく、ネサラの切っ先鋭い舌鋒がひらめいた。

「ほお、ティバーンの『女』ときたか。鷹の女は男と変わらず強い戦士が多かったが、俺の勘違いだったかねえ? いやいや、まさか誉れ高い鷹の戦士がそんなことで人を辱めようとは驚いた。語彙が乏しいにもほどがある。おまえは王になりたかったんじゃないのか? 一応王位の先輩として忠告しておいてやるが、腕力だけじゃなく知性も磨いておかないと王ってのは務まらないぜ」
「この俺を愚弄するかッ! 汚らわしい鴉の王ごときが!! ええい、こうなったら俺の手で貴様も、ティバーンも葬ってやるわ!」
「おい、ティバーン…じゃないな。鳥翼王様」
「なんだ?」

 こいつが俺と同じ鷹だってのが頭がいてえ。
 追いついてきた連中までぽかんと見守る中、ネサラが恐ろしく落ち着いた口調で言いやがった。

「二度と…そう。もう二度と、鳥翼の同胞を傷つけぬと誓った身ではありますが、わが王たるあなたに仇なす輩が出たとなってはそれも無効。王の手を煩わせるまでもない。この俺にこの不埒者を討つ栄誉を与えてはいただけませんかねえ?」
「ああッ! クソ、汚ねえぞ、鴉王!!」
「わたし、ゆるします!」
「ティバーン!」

 慇懃無礼なネサラの台詞に、ヤナフが食って掛かるのはわかる。だが、どうしてリアーネとリュシオンまで俺を睨むんだ?
 俺がこいつをぶん殴りてえってのは無視なのかよ!?

「王? 返事は?」

 ネサラなんかはもうほとんど恫喝だ。
 俺はでかいため息をつくと、もはやにやにやと成り行きを見守るだけのニケを睨んで言った。
 この場でこの俺がほかになんて言える? もうどうしようもねえだろうが。

「わかったよ! 俺が命じる! ネサラ、とりあえず殺すなよ」
「不本意ながら、承知」
「な…た、たかが鴉の分際で!」
「やかましい。おまえに欠片でも鷹の誇りがあるなら、とっとと化身して外に出やがれ」
「ぼっちゃま…! うッ!」

 ネサラの低い声に怒ったリゾーが飛び寄ろうとしたニアルチを突き飛ばしやがってひやりとしたが、それはウルキが受け止めてほっとした。
 俺たちはというと、ネサラに睨まれるまでもなく二人がテラスに出るのを邪魔しないよう道を空けるだけだ。

「畜生、なんでだよ!?」
「キレたネサラを説得できるならおまえがやれ」
「それこそ王の仕事だろうが!」

 噛み付いてくるヤナフに投げやりに答えると、にやにやした教官役のおっさん鷹とリュシオンまで話に加わりやがる。

「まあまあ、ヤナフ殿。いくら王でも、女房の尻に敷かれるのはどうしようもねえことだわなァ」
「ティバーンがネサラの尻に敷かれるのは今に始まったことじゃないでしょう。女房じゃなくても関係ないですね」
「……リアーネ。おまえまで頷かんでもいい」
「だって、ホントだもの」

 ウルキの哀れむような視線にいたたまれねえような気持ちで腕を組むと、先に顔色を無くしたリゾーがぎこちなくふんぞり返って出てきた。
 ああ、もちろん取り押さえたりはしねえとも。そんなことをしてみろ。
 あとでネサラにどんな厭味を言われることか、考えたくもねえ。

「俺を睨んでねえでとっとと行け。俺と戦り合いたいなら、まずは『鴉王』を墜とすんだな。話はそれからだ」
「当然だ! ネサラを侮ったこと、その身をもって後悔するがいい!」

 憤死しそうな表情で飛んだリゾーの背中に、鼻息荒くリュシオンが怒鳴ると、血の上りやすいほかの鷹もすっかり同意見とばかりに頷いてネサラを待った。
 公然と俺の女呼ばわりされたんだ。さぞ機嫌が悪いだろうと思ったネサラは悠然と出てきやがって、反感を持っていたはずの鷹の連中をもまとった空気だけで圧倒する。
 その空気は、まだ俺たちが事情を知らなかったころ、一番見ていた油断のならねえ鴉の王たる威厳ってやつだ。

「フェニキスのことは、俺と全ての鴉の命でも贖うことはできない。それほどの罪だ」

 俺の前で足を止めたネサラが先に飛んだリゾーが旋回する空を見据えたままぽつりと話し出すと、空気が張り詰めた。

「ああ。だから命がけで働け。これからも、鷹や鴉、鷺なんてくくりじゃねえ。鳥翼の仲間、ひいてはラグズの仲間すべてのためにな」
「当然だ。この先の俺の命は、ラグズ全ての礎となるためにある」

 緊張のせいじゃねえ。今まではっきりと俺の手で無理やり生かされた自分の在り方を明言しなかったネサラの、本音が初めて形になったからだ。
 にこりともしねえで言い切ったネサラがいつもの仕草で前髪をかきあげ、黒い翼を広げる。化身の光が閃き、瞬く間に蒼い光沢を帯びた大鴉が羽ばたいた。
 そろそろ春の気配が近づいて澄んだ空の下、舞い上がったネサラの魔力の乗った風が気持ちよく頬に触れる。こんな時なのにうっとりと微笑んで視線を交わすリュシオンとリアーネを笑えねえな。
 俺も久しぶりに見るネサラの姿に胸が高鳴る思いで空を見上げた。

「鴉王か……」
「確かに、普通の鴉より大きいな。翼は華奢だが」

 今回のリゾーの計画に乗ったのか、乗せられたのか。真相は知らねえが、この場にいた鷹の連中が興味深くネサラを見上げる。
 そうか。こいつらはネサラが戦う姿を知らねえんだな。鼻にしわを寄せて「けッ」と俺の横に降りたヤナフと、ニアルチに手を貸して出てきたウルキも肩を竦めて若い鷹の連中を睨んだ。

「あの鷹も化身したな」
「はい。……大きいですね」

 図体だけは、俺よりもな。ニケの言葉にラフィエルが眉をひそめるが、心配はいらねえさ。
 空に赤みを帯びた化身の光が閃き、大鷹と蒼鴉が睨み合う。
 騒がしくなったと思ったら、他の連中も気がついたんだな。鷹だけじゃなく、鴉たちも血相を変えた様子で出てきていた。

「……ロッツ」
「はい! 鴉の民に説明してきます!」

 事情は知らないはずだ。それでもこんな場面でネサラを庇い立てに出てくる愚を犯さねえ鴉たちを見て、俺は興奮で翼を膨らませたロッツに命じた。
 さすがに、鷹の連中ももう面白がってる奴らはいねえな。鷹の方は大よその事態を飲み込んでるだろうから、当然っちゃー当然かも知れんが。

「立会い人は、いりますかね?」
「いらねえだろ。時間がかかるような勝負じゃねえ」

 ヤナフに答えた俺の台詞に若い鷹の連中が一瞬鼻白むように俺を睨んだが、事実だ。
 あいつらが自分より強いからと認めたリゾーの実力は、ネサラには遠く及ばん。
 鴉は自分たち鷹より弱い――。
 腕力では事実だと言える。だが、それだけで勝てるかどうか、その目で確かめりゃいい。

「あッ、あいつ!」
「卑怯な…!」

 鳥翼同士が戦う場合、一度は距離を取り合ってから戦り合うもんだが、どこまでも卑怯な奴だ。
 ヤナフとウルキが飛び出しかけたが、勝負は一瞬だった。
 ネサラが礼儀にのっとって一度距離を取ろうとした背中に襲い掛かりやがってあっさりかわされ、ネサラ得意の身のこなしだな。
 一瞬で体勢を正面に変えたネサラが鋭いくちばしでリゾーの翼の付け根を打ち、落ちるところにさらに薄い翼を広げて手厳しい斬撃を浴びせる。滑翔と呼ばれる俺たち鳥翼の戦闘技術を極めた戦士が使う技だ。
 リゾーも腕力じゃネサラを圧倒してたんだろうが、それを発揮させてもらえねえなら勝負にはならねえな。
 鷹の怒りの声がどよめきに、鴉たちの悲鳴が歓声に変わった。
 あげくまっさかさまに頭から落ちかけたリゾーを体格で大きく負けるネサラがどうにか支えながら降りようとするのを見て、顔を見合わせたヤナフとウルキ、そして豪快に笑った教官役のおっさんの鷹も飛び出した。
 俺が行った方がいいんだろうが、今行くと俺の女呼ばわりされて機嫌を損ねたネサラに俺まで滑翔を食らわされそうでなァ……。

「ええ、そうでしょうね」
「うん、きっとそう!」
「ネサラ! ネサラはやっぱり強い! ……どうしたんですか、ティバーン?」

 リュシオン一人が鮮やかにリゾーを退けたネサラの姿に夢中で気がつかなかったらしいが、俺のささやかなぼやきをしっかりと読んだラフィエルとリアーネに頭を抱えた俺は、きょとんと不思議そうに首をかしげたリュシオンの頭を撫でた。

「王よ……俺はまだ、鴉も、鴉王も赦す気にはなれません」
「オレもです」
「おまえたち! まだそんなことを……!」
「リュシオン」

 そんな俺の背中から、若い鷹たちが固い声で言う。リュシオンは怒りで赤くなって向き直ったが、俺はリュシオンを下げてひたむきな目で俺を見上げる若い鷹の戦士数人に向き直った。

「でも…リゾーのやり方には、もう賛同できません」
「だからってオレは、あんな風に逃げねえけど!」
「俺もです!」

 リゾーの仲間になったのは、主にフェニキスが焼かれた時に家族を亡くした連中だ。
 それを知っているから無言で続きを促すと、若い鷹はまるで示し合わせたように身を引き、約束通り、リゾーを生きたまま捕らえたネサラが降りる場所を空ける。
 ネサラは興奮して自分の名を連呼する鴉たちの上を歓声に応えるように優雅に旋回すると、鮮やかに人型に戻ってしなやかな手を上げ、それだけであれだけ激しかった鴉たちの声が止んだ。
 相変わらず、恐ろしいまでに統率が取れてやがる。つられて鷹まで黙ったのは、雰囲気に呑まれたからだろうよ。
 俺も久しぶりに見る。ネサラの「王」としての姿だ。
 くそ、とても口には出せねえが、俺こそがこのネサラと戦り合いたかったぜ。

「鳥翼王……」
「ご苦労さん。面倒なことを頼んだな」
「なんのこれしき。王が望むならば、俺は彼方の秘宝でも手に入れて王の御前に参じるでしょう」

 ったく、おどけても唄うように話すのが様になる奴だぜ。
 そしてネサラは、平然とさっきまで自分を殺そうとしていたはずの若い鷹たちが空けた場所に降り立ち、ベオクの貴族を思わせるような見事な仕草で俺の前に膝をついた。
 当然のようにその隣に寄り添うリアーネに苦笑して、俺は「立て」とネサラに身振りで伝えた。

「おまえは俺の『女』なんかじゃねえ。もっと深い意味の『女房役』だってのは、ちゃんと後で言っておく」
「あのな。あんたがそんな言い方をするから妙な誤解が広まったんだろ?」
「なに、ここで聞いた連中が今日中にでも噂を広めるさ。おまえを押し倒して女役をさせるにゃ、まずは俺がおまえに血まみれにされてからの話だってな。それこそ俺のツラにいくつ傷が増えりゃ遂げられるのか、賭けが始まるんじゃねえか?」
「………そこまで凶暴ですかね?」
「自覚がねえのか?」

 まだ膝をついたまま肩を竦めたネサラと俺のおどけた会話の内容で、言いたいことが大体伝わったんだろう。どうやらすっかり例の噂を信じていたらしい連中の間にさざなみのように動揺が広がっていく。
 俺としちゃ淋しい気もするが、ネサラが顔を上げて堂々とセリノスを飛び回れないんじゃあ仕方がねえからな。

「ネサラ……」

 すっかり顔色を取り戻したラフィエルがそっと伸ばした手を取ってようやく立つと、ネサラはいつもの優雅な物腰で固い表情のままで自分を見つめる若い鷹の連中に向き直った。
 ネサラも王だ。
 こうして間近にあって、初めてそのことを実感したらしい。まるで葦が風に揺れたように連中の翼が閉じられ、次々とネサラの前に膝をついて行く。

「おい、なんの真似だ? 俺はあんたたちに膝を折られる覚えはないんだが」
「鴉王……」
「おまえたちの思いは、正しい。さっきはあいつの無鉄砲な行動で中断したが、俺はおまえたちから逃げるつもりはないぞ」

 驚いたネサラが首をかしげて尋ねるが、連中の姿勢は変わらなかった。ただ顔を上げ、ネサラを見上げて口々に叫んだ。

「俺たちは、あんたを赦したわけじゃないぞッ」
「あんたの働きはちゃんと見張るからな!」

 それは、膝を折ってから言う台詞なのか?
 そうは思ったが笑うニケと俺の肩を叩いてにこやかに首を振るラフィエルの手前、俺はなにも言わなかった。

「王! リゾーを繋いだぜ!」
「殺し合いになりかねねえんで、あいつとは別のところにな!」

 ああ、そりゃ必要な措置だな。
 ヤナフと教官役のおっさんの声に片手を上げて応えると、俺はこの期に及んでいまだに俺をじろりとかわいらしく睨むリアーネと、心から安心したように息をついたリュシオン、それからウルキの手を借りながら涙ぐんで「良かった…ぼっちゃま、良かったですなあ」と何度も繰り返すニアルチに苦笑した。
 どうもすっきりとはしねえが、これでこの一件は一段落だな。問題が全て解決したわけじゃねえが、ようやく自分の爪で傷つけた手のひらの痛みを思い出した。
 それで気づかれたんだな。青ざめたラフィエルに手を取られ、ばつの悪い思いで頭を掻きながら、俺はいつまでも立ち上がれねえ連中を前に戸惑うネサラの肩をもう一方の手で抱いて笑った。



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